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学校祭終わる [教科(数学)指導者として]

昨年度は生徒会顧問として迎えた学校祭だったが、今年は一担任として迎えることになった。

よく考えると、初めてものを販売してみることにしたので、初めての経験で緊張感が走っていた。ものを売ることを生業としているわけではないので、経験がないところに来て、生徒たちは想像の範囲内でさまざまな挑戦をしていった。そのような中で頼りになったのが普段アルバイトをしている生徒たちであった。必要なものを的確に指示し、買い出しなどでも活躍した。

当たり前のことだが、その中では計算がある。別にレジを持っているわけではないので、手計算である。普段数学が苦手な生徒たちはどう出るのか。やはりそれなりのリアクションを示してくれた。

私としても、仕入れは担任のお金なので、おつりの計算などすると結局自分に返ってきてしまう。生徒たちもわざとそういったことをするわけではないだろうが、果たしてお金が合うのかどうなのか。

アルバイトの生徒たちも今では文明の利器であるレジを使っていて、計算に困ることは打ち間違えで反応できるかどうかということになるだろう。単純な計算だが、間違えないように計算しないと。

まあこんな経験も今ときの人たちには必要なのかもしれないなと思いながら学校祭が終わった。

夏休みが近くなってきた。どうにか1学期が終わろうとしている。いろいろな意味でタフな時間帯を過ごした。
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学校祭の買い出しをしながら1学期を振り返る

1学期の授業が終わった。あとは学校祭を残すのみである。といっても、進学講習があるけど・・・。 「学校祭でクラスをきちんとまとめられない人間は担任にあらず」と言われ続けて二十数年。この時期になると、失敗してはいけないという恐怖にさいなまれる。一種の職業病のようなものである。しかし、最近は、失敗しないために先手を打つという方法が確立してきたので、そういうことも少なくなってきたことはきたのだが。 ゆとりが出てきたので、最近は普段あまりしないホームセンターや100均での買い物を楽しんでいる。どちらのものの方が良いのか、どちらの方が安いのか、など、研究する話題には事欠かない。今日は、スズランテープのありかと、塗料の値段と、ヤスリを売っている場所について調べ、購入に至った。 学校祭のプロみたいな先生も中にはいて、けっこう詳しく研究している人も中に入る。最近はそういう先生もめっきり少なくなってきてしまった。こういった文化も学校ならではであったが、最近は教員の仕事なのか?という議論の中でこういう仕事も消えつつあるのかもしれない。 でもこうも思うのだ。学校祭で熱心にしている先生は教え方も良いと。それは確信に近い。 合間を見ながら、夏休みの計画を立てている自分がいる。1学期の今のところ、有休消化はゼロである。1日18時間生活も過去の思い出となった。
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スピーキング [超個人的感想]

2年7月の模擬試験の英語の試験監督をした。というか、今年は進路指導の学年担当である。学年担当が私1人なので、全部の担当をするというハードぶりである。「何でも屋」もここまで来たか・・・。

久しぶりなので、勝手がわからないことが多い。英語の模試かぁ・・・リスニングCDを試しに聞いてみる。

「ん?」

CDを聞いてみると、スピーキングと言っているではないか。何かの間違えかなぁ・・・珍しいこともあるなあと思って、実施要領を見てみたところ、スピーキングとリスニングのCDがあるではないか!

いつの間にかこんなことになっていたのか・・・。

大学入試があれこれと変わるので、模擬試験も変更がかかることになっている。そのひとつに英語が大きく変わるという話がある。模擬試験もそれに併せて少し変わっていたのだ。教科が違うのであまりよくわからないところもあるが、そうも言っていられない変更だと実感を持って悟る。

まったく別件で、別の模擬試験的な要素がある試験が新しく開発されたとかで、勤務校では試しにその試験を行うことになっている。探究的な要素がある試験である。いろいろなものが開発されているなあと驚く。

時代が大きく変わろうとしている。この時代の変化の大きな部分は少子化にあると思っている。すごい勢いで変わっている。これは子供たちへの変更点であるが、彼らが成長するにつれて日本全体を覆う問題になっていくはずである。

この国が難しいところに来たものだなあとつくづく思う。
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学校は急には変われない [超個人的感想]

世の中には学校のルールでこれが解せないというものがある。時々メディアで語られることがあるさまざまなルールはどこから来るのだろうと思う人もいるかもしれない。でも、学校とはこのようにあるべきであるという考え方の中で根強くあるものもある。メディアで取り上げられる考え方がすべてではない。このブログはインターネット空間の中で展開されているものであるが、当然のことながら、この空間とは無縁の人たちも少なからず存在していて、その人たちの意見も世の中の意見としてくみ取っていかなければならない。

「こうあるべき」の基準は恐らく「社会が決める」ことなのだろう、と思う。学校にある変なルールというのは、少なからず、そのような人たちの意見も含めた考え方のひとつの表れなのだろうなと思う。髪の毛の茶色の生徒の指導の話はいつの時代にもある話のように思うところもあるが、この話が学校のルールとして変更になるという雰囲気は、一体いつになったら作られるのだろう。私が知る限り地毛茶だとしても、認められるということがあるのか不明である。

あと30年も進んでくれば、学校も変わらざるを得なくなり方向性が変わる気もするが、学校を取り巻く状況は、さまざまな立場の人たちがいるので、そのことが社会的に大問題になってくれない限り、簡単には変わらない。

でも、現場の人間にはすでに問題点としては見えているはずだ。だからといってルールが変わるほど世論が高まっているとも思えない。

学校は急には変われない。ひとことで言えば、このようにまとめられるのだと思う。

最近で言えば、ブラック部活動のことなんて、何十年前からあった話だと思っているんだ?と思う。少しずつ変わってきているのは、社会が変わってきて、そこから問題性が指摘されてきたからだ。時代がその問題性に気がつくまで教師は「おかしい」と思っても仕事を遂行する作業員として続ける、という感じなのかもしれない。
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