SSブログ

「自分で考えろ」がより鮮明に [超個人的感想]

録画していた番組を見た。NHKスペシャル「ホームラン新伝説~“怪物球児”ドラフトへ~」という番組で3人の高校生がどのような境遇で野球に取り組んでいるのかという番組であった。その番組の切り口の中に、彼らがどのような育ち方をしてここにいたったのかということが含まれていて、非常に興味深かった。

大きなテーマが表題の通りだったように思う。番組を制作する側は、当然大人の目線なので、形から入る従来のやり方が変わっていたことに少なからず驚きをもって報じた。

そう、その違和感は、現場の教員も同じだ。

従来のものを教える、ものを学ぶでは、うまくいかないことがでてきた。これまでは、どちらかといえば、上と下の関係で学ぶということを行ってきた。指導者イコール上、生徒イコール下。そこでこういう場合にはこうしろというスタイルである。しかし、時代は変わり、横のつながりで考えるというか、違いをもって成長を促すということで英才教育をしていくというのが、どうも一つのスタイルとして確立してきているらしい。もちろん、相変わらずの指導者もいるが、横のスタイルで学んでいきましょうというスタイルの教育の番組をみることに、違和感を持つ教員は年齢が高いほど多いように思う。

かといって、有能な指導者の中でも、相変わらず形から入っている場合もある。
形から入って、そこから自由を学ばせるのも一つの方法。しかし、「枠にはめてしまうと、考えない人間が育ってしまう」ということであった。それは言える。最初から形にとらわれずに育てていって、そこから枠にはまらないように育てるのも一つの方法ということも紹介されていた。

どちらがいいのかは正直よくわからなかったが、ある程度上を目指させるとしたら、枠にあてはめないというやり方があるということを知った。例えば、目標になる人を決めてしまうと、その人以上になるような成長は見込めない、ということらしい。

形にあてはめて指導するのはある意味易しい。それぞれに合わせて指導するほうが難しい。「教師がそういったから」と指導者に責任を押し付ける方が生徒にとってもやりやすい。そうして世の中の優等生は評価されてきた。案外、優等生と言われる生徒たちは自分で考えられない生徒が多い。そういう生徒にとっても、「自分で考えろ」といわれるのは、要求が高いと感じることだろう。考えさせる指導というのは、逆の言い方をすれば、だめなら自己責任を厳しく問うことになる。

また、何かを強制することで、生徒の個性をつぶしてしまうということは、今の社会ではよく思われてはいない。指導者も熱くなりすぎて生徒に過剰に当たることが問題だといわれることもある。思いが過剰すぎて空回りすることもあるかもしれない。指導者と生徒との距離感が適切であることが大切なのだろう。熱すぎるのは時代と逆行してしまう。むしろ穏やかに、自己責任を問うことを積み重ねていくという指導になっていくのかもしれない。そういう意味では熱血指導はもう古いのか。いずれにしても、示唆に富んでいる内容だった。


この番組を見てからしばらくこのことについて自問自答していた。時代は人間がAIにとってかわられるかもしれないという話題が出ているくらいだ。「自分で考えられない」人間が、この世の中では淘汰されるのだとしたら、生徒時代に自分で考えることを放棄し続け、「言われたことしかできない」人間に出来上がってしまったときには、究極の自己責任を負わされる(コンピュータ以下の存在価値しかないと言われてしまう)世代なのかもしれない。

そう考えたら、今の生徒たちは、結構大変だ。
nice!(11)  コメント(0) 
共通テーマ:学校

nice! 11

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。